大判例

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最高裁判所第三小法廷 昭和34年(あ)670号 判決 1960年3月15日

被告人C(昭一四・六・二九生)

主文

本件上告を棄却する。

理由

弁護人山本晃の上告趣意第一点について

所論は、要するに、刑法一九九条死刑の規定は違憲でないとしても、国は憲法一三条、二五条により国民個人の生存育成について責務があるのであつて、もしある個人に対し国がこの責務を果したのなら、その者に刑法同条の罪責ある場合これを死刑に処しても右憲法両条に違反するとはいえないが、国がこの責務を果さない限りは、その個人が刑法同条により処断されるべき場合でも、裁判所は所定刑中死刑を選択せずもしくは減軽して他の刑に処すべき義務あることを規定しているものと解されるのであつて、換言すれば、憲法一三条、二五条はその生存育成に関する国の責務が果されていない個人につき刑法一九九条を適用する場合に関し死刑を選択せずもしくは減軽すべき旨の特別規定をも定めたものと解されるのであるところ、本件被告人に対しては国は前記義務を有し、しかもこれを果していないのであるから、被告人に対し刑法一九九条を適用するに当つては右憲法両条の是認する範囲内で所定懲役刑に処すべきであつたのに原審がそうしなかつたのは右憲法両条に違反する、というものと解される。

憲法二五条は、積極主義の政治として社会的施設の拡充増進に努力しすべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るよう国政を運営すべきことを国家の任務として宣言したものであり、それは主として社会的立法の制定、実施によるべきであるが、かかる生活水準の確保向上もまた国の任務とし、国家は国民一般に対し概括的にかかる責務を負担しこれを国政上の任務としたものであるけれども、個個の国民に対し具体的、現実的にかかる義務を有するものではない。このことは当裁判所の判例(昭和二三年(れ)二〇五号同年九月二九日大法廷判決、刑集二巻一〇号一二三五頁)の趣旨とするところであるから、所論において国が憲法二五条により被告人個人の生存育成につき所論責務を有しながらこれを果していないという点は理由がなく、これを前提とする憲法同条違反の主張は採用の限りでない。

また、たとえ、憲法一三条により個人の生存育成について国に所論のような責務があるとしても、国がこれを果していない事実は原審で主張されていないのであるから、所論は結局前提を欠き採用するに足りない。

同第二点は事実誤認、単なる法令違反の主張に過ぎず刑訴四〇五条の上告理由に当らない。

同第三点は判断遺脱をいうが、所論心神耗弱の主張に対しては原判決は控訴趣意第一点についての説示においてこれを否定する判断を明示しているのであるから所論は原判決を正解せざるにいでたもので、前提を欠き採用することができない。

被告人本人の上告趣意一の自白調書の不任意性の所論は原審で主張なく、その判断を経ていないから採用するに足りない。(所論被告人の司法警察員の面前における各供述調書が任意性を欠く疑があると認められる資料は記録にないのみならず、右各供述調書を証拠とすることについては被告人において同意している。)

同二の殺意に関する事実誤認の主張、同三の量刑不当の主張はいずれも刑訴四〇五条の上告理由に当らない。

また記録を調べても同四一一条を適用すべきものとは認められない。

よつて同四一四条、三九六条、一八一条一項但書により裁判官全員一致の意見で主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 垂水克己 裁判官 島保 裁判官 河村又介 裁判官 高橋潔 裁判官 石坂修一)

弁護人山本晃夫の上告趣意

第一点御庁は昭和二十三年三月十二日大法廷の判決以来一貫して死刑の憲法違反でないことを判示されておりますので、私は本件について右の如き主張を為すことを止め、あらためて本件被告人について死刑の判決を維持した原審判決が憲法に違反することを主張いたします。

抽象的に刑法の規定が憲法に違反するというのではなくて、被告人に死刑の刑罰を科した原審判決が違憲であるという主張であります。刑法の規定そのものが憲法違反でないとしても、その刑法の規定の適用の仕方の点において憲法に違反があるということは云えると思います。(刑訴第四〇五条)

その論点の根拠は次の点にあります。

簡単に申し上げると、憲法は第十三条において「すべて国民は個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする。」と規定し、更に第二十五条で、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国はすべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」とありますように国家は個人の生存育成についても責任あるものと考えます。新憲法が二十世紀の憲法として社会福祉国家を理想とする規定がこの二条にはつきりあらわれております。従つて被告人の生育時において放置した責任をとらず、唯「死刑の威嚇力によつて一般予防をなし、死刑の執行によつて特殊な社会悪の根元を絶ち、これをもつて社会を防衛せんとしたものであり、また個体に対する人道観の上に全体に対する人道観を優位せしめ、結局社会公共の福祉のために死刑制度の存続の必要性を承認したものと解せられる。」(前掲昭和二十三年大法廷判決)という理由によつて、被告人に死刑を科することは、右憲法の法案に反するものといわねばなりますまい。

判例は、社会防衛の必要性を強調していますが、社会防衛の最も重大な方法は個人の生命の尊重と、最低限度の生活の保障にあり、また反社会的な人間の育成を阻止することにありましよう。

しかるにこの点を全く怠つて、現象した結果に対してのみ被告人に責を負わしめ、これによつて社会防衛をしようということは、私には全く納得し得ない点であります。

それは丁度、親が子供を生み放して放置し、その生長、教育に少しも責任をとらなかつたのに拘らず、子供が悪いことをしたからというてこれを処罰する権限がないのと同じであります。

第一審及び原審の判決においては被告人の生育について、次のように認定しています。

即ち、被告人は太平洋戦争の終るまでは(満六年)父母の許で順当に生育したこと、終戦後父がソ連に抑留されたため、毎に伴われて帰国し、母は郷里で古物商を営んだが被告人等四名の幼児をかかえて暮しをたてることができず、ついに春をひさぐ身に転落し、あまつさえ肺結核を患うようになつたので、被告人等の養育も意にまかせず、被告人等はこれがため或は野宿し、或は他人の畑作物を窃取して飢えをしのぐなど極めて不幸かつ不良な環境にあつて生育することを余儀なくされたこと。

被告人の父は昭和二五年に帰国したが、間もなく実母が病死したため、被告人は継母や伯父の許でその幼年期、少年期を過ごしたが、すでに形成された非行僻は同人等の熱心な指導にも拘らず改まらなかつたこと、その原因が被告人の心掛の悪かつたことにもよるが、父、継母、伯父の訓戒が厳格に過ぎ、暖い愛情に飢えていた被告人にかえつて反感を抱かせる結果となつたこと等を認めています。

このことについて、私は結論的に次のように考えます。

即ち、被告人は満六歳になる迄両親のもとで何不自由なく順当に暮していたのであつて、敗戦という事実さえなければ被告人もおそらく立派な青年に成長していたものと思います。

それが戦争という社会悪の犠牲になつて野宿したり、畑作物を窃取して迄飢をしのぐというみじめな環境につき落されてしまつたのであります。この環境は一体誰に責任があるのでしようか。

被告人の非行僻は善悪の識別力を養うのにもつとも大事な幼年期において、幼い自らの力だけでその生命を維持しなければならなかつたという環境、本能的な生存欲を満たすためには、何ものをも顧慮する余地のないようなつきつめた生活を余儀なくされて生長したということ、これらによつてその非行僻が形成されたことに疑問の余地はありません。

七つか八つの子供が飢をしのぐために藷泥棒をするなど考えただけでも悲惨でありますが、この点について、被告人には少しも責任はないと思います。

生きんとする本能を充足させるために何ものをも顧慮せしめないという被告人の根本的性格はすでにこのときに形成されたものであります。

本件の場合においても被告人は自己の性的欲望の充足のために手段を選ばず全く自己の抑制できなかつたこと、犯行後は唯逃げたいという欲望――生存欲に通ずる――を達するために前後を弁えずに、逃亡の邪魔になるA子を殺害して必死になつて逃亡したこと等すべて被告人の幼少年期に形成された性格に基くものと思います。

とすればかかる非行少年の行為については被告人ばかり責めることはできない筈です。

まして被告人には他人にない性格や美しい面もあると認められるのでありますから、かかる少年をこの地上より永遠に抹殺せんとするのは、如何に社会防衛の目的大なりといえどもあまりにも残酷であります。

私は本件記録を精査し、被告人の犯行の残虐非道さには唯々唖然として、言う言葉を知らず、被害者のため心から悲しむものでありますが、同時に被告人の経歴を知るとき戦争が与えた無限の害悪に対しやる方ない憤激の情を禁じ得ないものがあります。

勿論被害者の立場に立つて遺族の感情とくに○岡○夫の痛恨限りない被害感情を無視することのできないことは、原判決の指摘されるとおりでありましよう。

しかし被告人に死刑を科したところで果して○岡○夫の感情が完全に満足されるでありましようか。仮に満足することがあるとしても社会教育的見地からして「目には目を、歯には歯」をという旧約時代の法律を二十世紀文明の精神的指標と為すことが正しいかどうか、かつて封建制度のもとで武士の倫理として称讃された仇討――復讐心の満足を是とする道義感を今日認めてよいものか大いに疑問といたします。

またすでに亡き被害者B子、A子の霊が被告人を死刑にすることによつて真に慰め得られるものかどうかも疑問であります。

○岡○夫の家族にとつて被告人の行為は憎みてもあまりあるものでしよう。しかし復讐心、或は憎悪はかえつて憎悪する者の心を損うものであります。すでに死者はかえりません。

被告人を憎悪することがかえつて遺族を精神的に損うことになりはしないか。

本件によつて被害者の遺族が受けたもろもろの痛手、痛恨極まりない感情も時間の経過によつて「忘却」という神の恩恵を受けて次第に薄れ、従来以上の健全な社会生活を送られるよう切に祈ります。

被告人にも本件の事実を知つている姉妹があります。幼いときから別れてしまつた薄幸な人達ではありますが、被告人の死刑によつて同人等の新たな嘆きを、この地上に更に増し加えることになるではありますまいか。

被告人に自己の犯した罪の償いをさせるためには、被告人の生命を絶つよりは終身刑を科することによつて、被害者の冥福を祈りつつ社会の為人の為の労働に従事させることの方がより効果があるものと思いますし、被害者の霊をも慰め得ると思うのであります。

以上は私の意図するところを十分に尽し得ない憾みがありますが原判決に対する単なる量刑不当の主張ではなく、原判決が憲法第十三条、第二十五条の規定に違反する旨の主張であることを御配慮御勘案いただきたく存じます。

第二点原判決は判決に影響を及ぼすべき重大な事実の誤認があり破棄しなければ著しく正義に反するものであります。

被告人の本件犯行は誰がみても全く異常であります。

正常な判断力を有していた者には為し得ないような行為でありませう。犯行当時被告人は是非善悪の弁識力を著しく欠いていたのであり、当然心神耗弱の状態にあつたのであります。

原判決も、被告人については「生長後も道義的責任感において通常人に劣る点のあることは十分認めることができのであるが」とし、又「被告人の伯父○田○道は梅毒性精神病者であつたことが看取できる」とし乍ら、なお「被告人には何等精神病的徴候は認められないのであつて、犯行当時被告人は是非善悪の弁識力及びこれに従つて行動する能力を有していた」と判断しています。

しかし、すでに第一点において述べましたように、被告人は自己の欲望を制御する力において極めて欠けるところがありますので、犯行当時においても白己の欲望の満足以外その行為の是非善悪については全く認識していなかつたことと思われるのであります。

又仮に善悪の識別があつたとしてもこれによつて自己の行為を抑止する能力を著しく欠いていたのであります。

このような被告人が必ずしも精神病者、精神異常者ではないかも知れませんが、法律上心神耗弱の状態にあつたということは疑いない事実だと思います。しかも被告人について相当程度心神耗弱の疑を抱き乍ら、これについて何等の鑑定も命ずることなしに判決をした、第一審ならびに原審判決は違法であると思います。(大審昭和四年(れ)四七四号同年七月二六日刑四部決定新聞三〇三〇号八頁参照)。勿論心神耗弱か否かの判断は裁判所独自の判断に委ねられ、鑑定を命ずると否と、またその鑑定事項の結果を採用すると否とは一切裁判官の判断によることが自由心証主義の立前ではありますが、本件のような重大な、異常な事件において、しかも被告人の異常性について相当の疑問を抱き乍ら、鑑定を命じなかつたことは、経験則に反し、審理不尽の違法があり著しく正義に反するものと考えます。

第三点原判決は控訴の趣旨第一点についての判断を遺脱しており、判決に影響を及ぼすべき法令違反があるものと思います。

控訴の趣旨第一点は「刑法判例上心神耗弱者の犯行とせられるものは殆んどがその犯行時、精神上の強い障碍が存在した場合であるとみられるのであるが、若し被告人の行為が犯行当時特別に精神の障碍、即ち所謂精神学上の精神病或は精神的異常のものでなくとも、その人となりが或る原因(遠因でも)によつて正常人と違つたものの行為であつた場合、而もその平常人と違つた人となりの形成がその被告人自身の責任に帰することが考えられない場合には、その被告人の行為をもつて心神耗弱者の行為と見做されないであろうか」という論点でありまして、犯行時において精神的異常のない場合であつても、人格形成の過程において、多大の欠陥があり、その欠陥を被告人の責に帰し得ないときは、心神耗弱者と同一に扱つて刑を軽減すべきであるという主張であり甚だ傾聴すべき意見であると考えます。

刑法では構成要件に該当する違法な行為であつても、行為者に対し非難すべき理由がなければ犯罪は成立しません。

この非難ないし非難可能性が責任といわれるものであり、心神喪失及び心神耗弱はこの責任阻却事由であります。

従つて心神耗弱という概念は法律上の観念であつて解釈の如何により妥当な内容を与えられるものと思いますが、判例のように是非善悪を識別する能力というように概念の内容を固定してしまいますと、本件被告人のような場合は、心神耗弱そのものではないが、これに準じる責任阻却事由があると考えざるを得ないのであります。

被告人は自己の行為の違法性を認識しながらもこれを抑止しかつ自己を統御し得る能力において平常人にはるかに劣る点のあることは原判決も認めておる事実でありますから、被告人が限定責任能力者であることは当然のことのように思われるのであります。

原判決がその審理において、被告人の血統に精神病者がいたか、どうかという生物学的観点のみに重点をおき、精神異常ではないから心神耗弱の状態にあつたものではないと単純に判決し、控訴の趣旨において、被告人の行為は心神耗弱と看做し得るような限定責任能力者の行為であるという主張に対して何等の判断もしなかつたことは、明かに重大なる法令違反であつて破棄しなければ著しく正義に反するものであります。

以上上告趣旨としては極めて不十分であつて意に満たないものではありますが、死刑という重大な判決を受けて日夜苦脳している被告人のため、弁護人の意図するところを然るべく御勘案いただきたいと存じます。

(昭和三十四年六月十一日付)

以上

被告人の上告趣意

一、本件稚内警察署取調官深見某刑事の取調べに際して不法と見られる行為が有つた事を申し述べます。

私は昭和三十三年二月十九日犯行後、稚内市外声間原野沼上に於いて火薬を以つて自殺を図りましたが、未遂に終り、其の時顔面及び腹部に火傷を負い、市内の協会病院に入院致し、完全に治らぬ内に退院させられ、稚内警察署内留置場に収容され、再度にわたる取調べと前記の火傷の苦痛最中、苦痛を訴えたにも拘はらづ、右深見刑事は取調室外の当直室に連行し、私の自白を一切拒絶し、事実を無視した私にとつて大変不利な一方的な判断に依る自白を強要したのであります。

又深見刑事は取調べ中酩酊致して居り、私がありのままの自白を主張しようとすると、大きな声で威嚇したばかりか其の場には全々不必要な先のとがつたキリの様な物を手にしながら、取調べを強行し、私は右の様な態度に驚異を感じ右刑事の一方的な見解のもとでの自白をしたのであります。

又取調中、寒さと火傷の苦痛の為座つて居るさえ困難につき、取調べを一時中断して貰う様願つたに拘はらず、火の気の全くない室の内で取調べを続行し、午後八時頃迄取調べを致したのであります。

更に最後に深見刑事は「俺は深見と云う者だ、何かほしい物があつたら買つてやるから」と私に対し優しい言葉をかけ、「ウソ」を云い自分のやつた違法行為を誤魔化そうとしたのであります。

右の様な取調べは不法行為であり、本件に対しては何一つ否認しているのではなく、正直にありのままを申し上げて、御裁決を願うので有りますから、此の点について取調べを御願い申し上げる次第であります。

一、事実誤認について

(1)  本件原判決罪となるべき事実中第一について

「いつそのこと同女を殺害して姦淫すると共に犯行を隠蔽しようと決意し」とありますが、此の事実はなく、私は強姦しようとは思いましたが、反抗したので、又大きな声を出されては困ると思い、静かにしようと思つたのであり、結果は殺してしまう事に成つたのですが、私は全々殺害してまで、姦淫しよう等とは考えませんでした。この事については旭川の検事に依る調書に書いてあるはずです。

(2)  本件原判決罪となるべき第二の事実について

「同女を殺害して、金品を強取しようと決意し」とありますが、右第一の事実中と同様で、結果としては死に至らしてしまいましたが、私としては全々殺意はなかつたのであります。

(3)  一審判決謄本に依る事実誤認について

原審判決謄本二枚目表最後より四行目に於いて、「同人に身の上話をして同情を求め」とありますが、これは私としては全々覚えはなく、唯○岡さんの聞く事に答えたに過ぎません。

以上右に事実誤認について、述べましたが、此の内容に於いては、応々にして、検事の一方的な見解のもとに作製された事実が有りますので、何卒此の点について、再審議された上、正当なる判断を下されん事を、お願い申し上げる次第であります。

量刑不当について

私は地方裁判及び高等裁判の判決には絶対に受ける事は出来ません。高等裁判での判決文に依りますと、私が控訴の申立及び趣意書の提出をしなかつたので、私が刑を受ける覚悟で居るのだろうと云う様な見方をされたのだろうと思いますが、私の気持としましては決つしてそうではなく此の度の事件をふり返つて見れば、年令も若く考え方も浅かつた為とは云い乍ら、ちよつとした心の動搖から尊い二人の生命の火を消してしまつた事に対しては、本当にすまない気持で一つぱいで日夜二人の霊に向い私の信仰する神(イエス、キリスト)様を通して深く詑び、冥福を祈つて居ります。

私は事件当時十八才と八ケ月であり普通に育つた者であれば、物事を実行するにあたつて、深い考えのもとに行動をとる事でしようが私の場合に於いては、善悪に対するしつかりした考えを心に植え付られる年令にある時、不幸敗戦と云う大きな障害にはばまれ、生きる為には人の事等考える必要はない。

たとえ物を盗んでも仕方がない、いやむしろ当ぜんの事だろうと云う間違つた考え方を植え付られてしまつたのであります。

母親のそばで生活して居る内は、貧しい生活の内にも、幸福なものが体内をめぐつて居ましただが無理がたたつてか、母が病床の人となり戦災孤児収容所へ入れられてからと云うものは、それはそれは言葉にも表せない、悲惨な明け暮れの毎日でした、遊びたい年頃であつても、遊ぶ事を許されぬばかりか、食物も満足に与えられず、無理な労働を強いられ、空腹をかかえたつた一片のパンでも落ちてはいないだろうか、幼い頭で唯それだけの事を考え、街中をさ迷い歩いた事も度々でした。

右申し上げた様な不良且つ悲惨な環境の元で育てられた人間が、たとえ一時の安定した生活が与えられたからと云つてすぐに更生の道をとる事が果して可能でありましようか特別に意志力の強い者なら別です、右に申し上げた様な生活が積り積つて出来上つた人間(つまり意志の弱い方)が事件当時の私の姿で有つたと云つても、良いでしよう。

私も現在では今迄送つて来た人生の反省をし、又今は亡き方の冥福を祈ると共に、被害者の方達に対しても、今度の裁判で減刑して戴ければ、いつかかならず、償いをしようとしつかりと心に念じて、今度の裁判に最後の望みをかけ感謝多き日を送らせて戴いて居ります。

裁判官諸氏の特別なる御情と御慈悲を以つて終身懲役に服する事が叶いますれば、たとえ此の身は鉄窓の奥深くつながれていようとも、心底より更生して、皆様方の御心をうら切る事なく、少しでも社会の為と成る仕事をやり此の度犯しました大罪の罪亡しの万分の一もする事が出来れば、私にとつて此の上なき、幸いかと思います。

裁判官一同様の正しい御理解の下に終身懲役の大刑を以つて減刑されん事を、何卒私の上に一すじの光明を御一同様の御情け御慈悲を以つて授けられん事を心中より伏して御懇願申し上げます。(昭和三十四年六月八日付)

以上

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